【第3回】不動産鑑定士のひとりごと 『取引事例という迷い』
最終更新日:2026.03.13
損失補償基準に係る土地評価の中心的な評価手法である取引事例比較法について、細部に立ち入る前に、ここで一度「取引事例」というものの実態を見つめ直しておきたい。
ここで私が携わった民間取引の一事例を紹介し、取引事例の選択や事情補正、標準化補正に際して、「取引事例」の在り方・捉え方として、常に念頭に置いておくべき事柄が凝縮されたものとしてご理解いただきたい。
この事例は、私自身が長年土地評価に携わる中で折に触れて感じてきたことでもあり、同様の印象を不動産鑑定士を含む土地評価担当者の多くが、少なからず抱いているのではないだろうか。
ある法人Aは、移転が決定したことに伴い、所有する土地260㎡とその地上建物を売却することになった。決算期との関係もあり、売却には時間的な余裕がなかった。地元の仲介業者Bと相談のうえ、売却希望価額は2,200万円(84,600円/㎡)と、やや高めに設定された。もっとも、これは売り手側としては定石といえる判断であろう。付近の地価公示地は78,000円/㎡であり、単純に比較すると約8.5ポイントの価格開差がある。ほどなく買い希望者Cが現れたが、その提示額は1,900万円(73,100円/㎡)であった。
買い希望者の出現が早かったことから、AとBは当該地域の需要の強さを感じ、さらなる買い手の出現を期待することにした。しかし、その後ひと月の間に内覧はあったものの、当初の予想に反して新たな買い希望者は現れず、三か月が経過した。
土地は好立地の角地であったが、地上建物は平家でやや老朽化しており、土地そのものの需要に対して、この建物が心理的な足かせになっていた可能性も否定できない。次第に焦燥感を募らせたAは、Bと協議のうえ、売却希望価額を2,100万円(80,800円/㎡)へと引き下げ、Cに提示した。しかし、Cはこれを契機に、さらに踏み込んだ値下げを求めてきた。
その頃、強気であった地域の不動産需要にも一服感が見え始め、当初の売却希望価額に無理があったことを、AもBも自覚するに至る。数日後、Cは仲介業者Bとともに現れ、既存建物の解体費相当の控除は求めない代わりに、2,000万円(76,900円/㎡)で話をまとめたいと申し出た。Cには建物をそのまま利用する意向があったのである。残された時間は多くない。Aはこの条件を受け入れる決断をした。
立地条件や角地であることによる個別的要因に、これ以上拘泥してはいられなかったこともあるし、当初から心づもりであった2,000万円という水準に収斂したとも言えるからである。株主から大きな異論が出ることもないであろう。
こうして振り返ると、不動産取引においては、価額が100万円単位で推移しながら最終的な落としどころを見いだすことが多い。取引の尺度はあくまで総額であり、単価は便宜的な指標にすぎない。しかし、この事案を単価で見れば、総額100万円の差は約3,800円/㎡の変動に相当する。土地評価の現場にとっては、決して小さな変化ではない。
さらに言えば、売買当事者の内心においては、角地であることを明確に意識した価格形成がなされていなかったとしても、不動産鑑定士や土地評価担当者は、この取引事例に対して「角地補正」を施すであろう。その補正は、結果として大きな単価変動を生むことになる。ここに、取引事例を扱う際の「迷い」が潜んでいるように思われる。
総じて、取引事例価格の取り扱いには細心の注意が必要である。そのことは、事情補正や標準化補正の場面で最も顕著に現れる。事例カードに鑑定士の詳細な注記がない場合であっても、とりわけ民間取引事例には、何らかの事情が伏在していると考えるのが自然であろう。また、標準化補正が、必ずしも売買当事者の価格形成意識を忠実に反映しているとは言い切れない。
不動産マーケットが自然発生的に生み出した総額や単価を、土地価格比準表という人為的・一律的なルールで整理しようとすること自体に、そもそも無理があるのかもしれない。
やや主観的な受け止め方ではあるが、不動産鑑定士を含む土地評価担当者は、できる限り取引事例の背景事情や個別的要因を吟味したうえで、慎重に取り扱うことが肝要である。土地評価様式に当てはめる三つの事例の規範性を見極める際にも、この「迷い」は案外見過ごされがちな事象なのではないかと思われる。
なお、この事案では、法人Aの建物は法定耐用年数を超えており、簿価は備忘価格であった。そのため、売買価格2,000万円には建物価値は含まれていない。しかし、建築費が高騰する中で、買主Cはその中古建物に一定の利用価値を見出していた。結果としてCは、利用価値の残る建物を、対価を支払うことなく手に入れたとも言える。
民間取引事例について述べてきたが、公共用地取得の取引事例においても、同様の引っかかりを覚えることがある。起業者は画地の個別的要因をどの程度考量したのか。どのような取引事例を、どのように用いたのか。不動産鑑定評価書は徴取されたのか。そもそも損失補償基準に基づく土地評価を経たものなのか。
取引事例をめぐる迷いは、尽きることがない。
(参考)
